昭和44年05月05日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれ ばだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
神徳は信心をすれば誰でも受ける事が出来る。まあいと簡単にこう言うておられますですね。ところが、実際信心する者は、例えばならお道の信奉者と言うのは沢山あるんですけれども、先の世までも持って行かれ、子孫にも残るというほどしの神徳を受ける。はあ、神徳を受けてるなというような人は実に少ない。すると教祖様は少しオーバーに言うてござるというような感じがする。
まあ、そういう言葉では悪いかも知れませんけれども、だから、ね。教えにはそう言うておられる、御理解にはそう教えておられるけれども、神徳というものは、そう誰でも簡単に受けれるものではないと決めてしまう。まあ、神徳は受けられんけれども、おかげは確かに受けられる。信心すればおかげは誰でも受けられるけれども、神徳はそうざらには受けられない。大抵なことでは受けられない。
というような風に、まあ言葉で言うとこういう事になるけれども、まあ言葉ではそう現さなくても、そんな風に軽く御理解を頂いておるのじゃなかろうかと、こう思うんです。教祖様はこう教えて下さってあるのであるから、ね、誰でもすぐに、すぐにではない。誰でも受ける事が出来る、しかも、みてるという事がない。限りなく受けられると仰る、そういう信心とは、ならどういう信心をすれば受けられるか、ここに神徳は信心すればと仰る、ここで仰っておられる信心とはどういう信心の事であろうかと。
私はここんところを、思い、思うて見なきゃいけないと思う、ね。ここんところを少し、本気で追求して見なければいけないと思う。ね、そして私は思うのにです、例えば甘木なら甘木の初代。ね、久留米なら久留米の初代。なるほど、ま、大変な御神徳を受けられたお方だと私達は思う。ですから、私はその、安武先生とか石橋先生あたりでも、私はこういう風な表現をなさる、なさるだろうと思うんですね。
信心すれば誰でもお徳が受けられるぞと。しかもみてるという事はないぞと。あの世にも持っていかれる、神徳は誰でも受けることが出来るぞと。これは受けてみた者でなからなければ、そういと簡単には言えんのだとこう。ね、ですから、それを受けられた方の、やはり信心というものを辿って見なければならんという事になるね。最近言われる教祖の生きられ方と。ね、
金光大神を繰り返し、繰り返し読ませてもらい、繰り返し繰り返し、その、まあ、深さに触れて行くと言うか、分かる。教祖様がこういうような生きられ方をなさるところに、御神徳を受けられたんだなという事に、を分からせてもらい。久留米の初代がこういう生きられ方をなさったところに御神徳を受けられたんだな。甘木がしかりである。ね、ですから、そういう生きられ方というものを。
私共の生き方の上に、または生きる調子の上にです、ね、頂いて行こうという、私は願いを持たなければ駄目だと思う、ね。そこのところ?さん分ったですね。信心すれば誰でも受ける事が出来るのが神徳である、と教祖様もいと簡単に言うておられる。けれども、どれほどのお道の信心をした人はあるかも知れんけれども、はあ、あれが神徳であろうかと、神徳を世の中にも現しておい出られ、またあの世にまでも持っておい出でておられるであろうというような人は、そう沢山は知らない、私共は。
ただ沢山の信者、沢山の信奉者はあったけれども、そういうものは何か知らんが、こう皆、泡沫のようなもので、こう消えてしまっておるような感じがする。ね、そこで私共はです、例えばこの御理解をこう頂かせてもろうて、信心は、神徳は信心をすれば誰でも受けられると仰る、その神徳を受けられた方達の在られ方と、といったようなものを、やはり本気でどういう信心をなさったかと、いう事をです。
それを私共は目の当たりに見て来ましたし、または聞いて参りましたのがまあ私は甘木の初代であるとか久留米の初代である。子供の時から見て聞いてきておるのである。又はあの三代金光様の所謂あの常の御姿といった、お書物に出ておるような、あれを実際に目の当たりに見て来ておるのである。頂いて来とるのである。ですからははぁあぁ言う様な信心の在り方にならせて頂かなければ、あれが信心と言うのだと。
ここで仰っとる、ただ毎日、毎日お参りをしよるという事が、ではない、という事になって参りますね。誰でも受けられる神徳、そういう信心とは、本当にお徳を受けておられる方達の在り方。はあ、ああいう在り方が信心だという事になるのです。ですから、そういう信心はです、身に付けて行かなければ。そういう信心を、言うならマスターして行かなければ。そこでただ我流の信心ではいけないと。
本当に御神徳を受けておる人達の信心を身近に教えてもらうおかげを頂かなきゃならんという事になる。さあそこで、ならここではです、ね、甘木はそうであった、久留米はそうであった。三代金光様、私共が存知あげておる意味合いにおいてはです、ね、あのような御信心をなさっておられたと。ね、まあ一番私共に身近な、お近くにおられたから甘木の安武松太郎先生などの御信心と言う様なものを聞かせてもらったり、実際に見せて頂いております私共はですね。
ははぁとにかく天地の親神様のお働きと言うか。天地の親神様の、まあ甘木は御物と言ったですね。神様の御物ぞと。これをもう徹底大切にされたという事です。ね、それはもう私共がですね、想像もつかんほどに大切にされたんです。ね、お風呂へ入られるタオルなんかもう決してこう、絞りきるような事はなさらなかったタオルが痛むと。お道を歩かれても、半日も歩かれると必ず、下駄を右と左と履き返られた。
道に枯れ枝一本落ちとりゃ、それを黙って拾うて帰られた、ね。甘木でまあ有名なお話がありますね。修行生の方達がお風呂を沸かすのに一番苦労した。ね、熱すぎてもならん、温すぎてもならん。その間のを取って行かなきゃならん。親先生お風呂が沸きましたち。お風呂へ入られるこれはちった熱すぎじゃなかのて。燃料が勿体無いという言うてそのお風呂に入られながら教えられたと。そこである時ある修行生が、ね。
石炭を使うたり焚き物を使うたりすると、先生がああ言いなさるけんで、もう今日はいっちょそういう風な、もう言うなら教会の物じゃない様な物ばっかりでお風呂を沸かそうと思うてからその、広い境内をきれいにお掃除して木の生え枝、木の枝やら紙くずやらと言った様な物全部集めて、そういう物でお湯を沸かしたと、ね。ほらあもう先生が喜んで下さるに違いはない。
お風呂が沸いたから申し上げた所がお風呂が熱かった。また是お風呂が熱いじゃないのち。そしたらそのもうそれこそ、得たりとばかりにその修行生が言うております事が、親先生今日んとはあの枯れ枝やら枯れ木やら、もう拾うた物ばっかりで沸かしましたち言うて。ね、これが本当に例えば汚いと言うかね、そのけちん坊と言うか。けちん坊でならああそうやったの、タダの物で沸けたの、そんならちった沸かし過ぎたっちゃ良かなと、こう言いなさるところじゃろうけれどもです。
そう言うて本当に一見けちん坊に見えるような生き方をなさったがです、先生の心の中にあるものを、それこそ大切にする事の神様の御物を大事にされる事に徹しておられる先生ではです、それこそ顔色、顔色変えてから仰った。ね、お前は甘木に何の修行に来とるか。ね、庭に落ちとる 枯れ木、枯れ木、枯れ枝というのは、神様の御物じゃなかなと仰った、ね。枯葉一枚だって神様の御物ばいち、と言う様な教え方と言うのじゃなくて、そういう生きられ方をなさったんです。
そしてはあ是が天地の大徳であろうと思われる様なとこに見受けられた。ね、是は甘木の信心です。天地の親神様の御物であるという自覚、一切がそうだと。だからこの一粒は言うに及ばず枯葉一枚の上にでもね、ほこ紙一枚でもお粗末なさらなかった。愈々神様の御信用が身についてお出でられたんだなあ、所謂みてる事のないというほどに、の徳を段々付けてお出でられたなという事をそこから感じる事が出来るでしょう。
そこでなら今度は皆さんがです、まあここ信心合楽で稽古をなさっておられる方達は、なら私はどういう生き方をしておるかと。ね、今申しましたのは甘木の信心、ね。そこで私はここんところをどういう風に頂いておるか、どういう風にしておるか。私はこれでおかげを受けてきた、ね、これを限りなく愈々徹底して行く事によって、私は御信用を神様の御信用を頂く事が出ける。
御神徳が受けられると私は確信しておる事はです、甘木が神様の御物をお大事にされたようにです、私は神様のなさる御事柄を、これは私は私なりに大切にして来たという事である。大坪総一郎この私にです、ね。神様が求めなさる、ね、様々な事柄があった。様々な事情があった。私の身辺に起きてくる様々な問題も全てそれであったと。ね、ですからその問題をです、ちょうど体内に自分の子供が宿ったら、ね。
神の氏子がおなかの中に宿ったと思うて大事にせよと、いう御理解がございましょうが。ね、そのようにです、例えばこの御事柄、御事情というものはです、私の心の中にですね、神の氏子が宿っておると言う様な、神様が私に求めたまう、これは場合は修行だな御事柄だな、御事情だなというような頂き方で、これを大事にしてきた。それが一つそれこそ十月十日になると、十月十日の時間というものが経過する。ね、
そうするとその御事柄が御事情と、御の字を付けなければおられないほどにです、ね、そういうまあ言うならば難儀な問題なら難儀な問題がです、それを自分の心の中に神の氏子が宿ったような心持でです。神様の御働きがここに私にこれを下さったんだという心持で大事にして参りましたら、その事がおかげの元になって来た。素晴らしい物を産みなされてくるおかげの元になって来たと。
これはここ20年間、私の信心を皆さんが見て下さりゃ分かるでしょう。場合によっちゃ涙の出るような歯痒い事もあった。もう辛うてたまらん事もあったけれども、それを神様の御事柄と、ね。甘木が神様の御物だとして大切にされたように、木の葉一枚でも大切にされたように、どういう小さい問題でも神様の御事柄だとして、私はそれ、いわゆるそれを、ここでは成り行きを大切にと言われておる、ね。
成り行きを大事するという事はね。神様が私に求めたまうそれを大切にする事なのですからね、神様だってやっぱりその人を信用なさる事になり、神様がお喜び下さる事になると私は思うんです。神様の御物を大事にされて神様の喜びを得られた甘木のように。私は神様の御事柄を大事にする。だから私はこれなら神様の御信用を愈々頂いて行く事が出来る、親から神様のお喜びを頂く受けて行く事が出来る。ね、
こういう風に御理解頂いて参りますとです、これは愈々神徳をすれば、神徳は信心をすれば誰でも受ける事が出来ると仰るが、その信心はその人の一つの何て言うかね。その人柄とか個性とかによって違ってくる。だから必ずしも、甘木の通りじゃなくても、久留米?の通りで出来なくても、銘々の、私は生き方、在り方を持ってです、ね、御神徳の受けられる信心がそこにあると。
ここに信心の稽古に通うて来るものはです、教祖の御教えを例えば今私はそのような風に頂いておる。ここでは例えば成り行きをもうギリギリ、ね、徹底して成り行きを大切に、成り行きを大事にという事を言われる。ね、それが現在の合楽のごひれいでありおかげである。しかもこれは限りなく続けられて行くところに、みてる事はないと仰る、なるほどみてる事のないおかげが受けられみてる事のない。
いわゆる御神徳にみてる事のない、おかげが影の形のように、寄り添うて来るような、おかげになって来るんだという、まあ確信を持って、私共は信心を進めて行かなければならんと、こう思うのです。なぜ成り行きを、大事にしなければならないかと、いう事が分かったですね。先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心をすれば、誰でも受ける事が出来る。みてるという事がない。
神徳は信心をすれば誰でもといと簡単に教えられておる様に御座いますから、それをいと簡単に受けてしまう。そして実際はそう簡単には受けられんのだと、心にちゃんと思うとる神徳というのはそんなに簡単に受けられん。神徳を受けられる信心をしないから受けられん。ならその神徳が受けられるみてる事のないと言われるほどの神徳を受けられるには、ならどういう信心をしたら受けられるのかという追求をしない。
そこで、私共は目の当たりに見てきた、御神徳を受けておられる方達の生き姿とでも言うか。生き調子というようなものを得とくする。はあなかなか一つの得とくですからね。ただ教えられただけじゃいかんのである。ね、例えば甘木なら甘木で修行させて頂いた人達は、その親先生のそういう信心の得とくの為に修行をするのである。そこでこれはもう言うならば、もうまあある意味合いでは語り草である。
甘木の初代ってこういう方じゃったげなと言うだけの話なんです。やはり得とくと言うのは、本当に今、ここに現しておる信心。それを見たり、聞いたり、側によっておらなければです。ね、以心伝心とでも言うかね。そういう、何とはなしに伝わって来るものをですね、身近におかげを一つの手本というものを側に見たり、置いたりしてけいこしなければ、本当のけいこは出来ん。
そこで、ならここで信心のけいこをさせて頂いておる人は、教祖様が教えてくださる御教えを、私はこのような風に消化しておる、このような風に頂いておる、このような風にして生かしておる、そしてこのようにおかげを受けておる。いわばそれを皆さんは見習いに来るのであり、そこんところを体得する為に日々こうして信心の修行をしておるんだという事を、一つ思うてね。
徹底私はこれだけは大事にせろ、これだけは大事にしなきゃいけんよと言うておる事を皆さんも本気でその事を一つ日々の信心生活の上に現して、そこから初めて体得というものが頂けるんじゃないかというふうに思うんですよね。聞いただけならね、甘木の話だって、もう三代金光様のお話だって、それは簡単です。けども、それを体得するという事は実に難しいこと。
そこに私は教会の一つ個性と言うかね、やはり玉水の湯川先生の所では、湯川先生流の、そのごひれいの立ち方っていうのがあったんですよね。例えば、神様が御主人ぞと。ね、お前達はそこの、まあ言うなら番頭さんであり、女中さんだという風に教えられた。だから、私共その理屈を聞くとよく分かるんです。分かるけれどもです、合楽の者がそれを真似したっちゃ、おかげは受けられんから不思議ですよ。
甘木の初代がこうじゃったげなけんて言うて、私共がそれを真似したっちゃ、ちょっとしたそっとの真似ぐらいな事っちゃ、その安武先生の信心の神髄に触れる事は出けんのですよ、ね。ですから、そこに行きゃ自ずと一つの流儀というものが生まれてくる。ね、例えば小倉の桂先生とか、または安武先生あたりがここで例えば入った。ここにもし見え、おられるとした見えられたらです、もうビックリされるだろうと思う。
お水は一日中沸きっぱなし、ね、ずうっと。ほらあ、もう何とお粗末御無礼な事じゃろうかと思いなさるに違いないのです。けれどもそれをなら私の生き方ってものをよくよく聞いて下さって、煎じ詰めて行くとです。はあこれはいわば教祖様の教えて下さるそれに同じ事になって来るんですよね、結果においては。私の精神というものを良く、まあ追求して参りますと同じ事になって来る。
ですから、同じ金光様の御信心を頂いておってもです、形に現れてくるその、信心というものは違う。だから、おかげの現れ方もです、ね、合楽には合楽のおかげの現れ方ってのがあるように私は思う。ですから、ここに信心のけいこに通うて来る人は、やはりここの信心の流儀というものを、ね、体得させて頂く以外はないという風に思うんです。このたとえば教典の全てがです。ね、
まあ言うならば、まあ本当にいと簡単にこう言うてある。それに今私が申しましたように、ね。教祖様はこう仰っておられるけども、そんな訳にいかんとか。こりゃあ誰でも受けられんとか、といったように簡単にそれを追求しようとせずにです、ね、おざなりになってしまうところに、おかげがおざなりになってしまうように思う。ね、教祖様はそう仰るのだから。例えば、ね、
信心してみかげのあるを不思議と言うまじきものと、むしろおかげが受けられん時の方が不思議な事じゃと仰るのじゃから、そこに一つの一大不思議を感じてです、ね。どうして、そのみかげが受けられんのかという事をですね。追求するところから、なるほど信心すれば、ね、おかげは受けられるんだという、ね、実証を自分でして行く、立てて行く事が出来る。ね、ですから教祖の仰ったその言葉をですね。
私共はその教えを忠実に頂く事によって、教祖の仰っておられる事をに対する証を立てて行くという責任が私共にはあるんだと思うです。その信心を受け継いで行く私達は。でないと、教祖の神様の方が、空言になってしまう。嘘じゃない本当に受けられるんだと身を持ってそれを現して行く、証を立てて行くそういう私は願いそういう意欲がね、お互い少しかげておるのじゃなかろうか、最近のお道の信奉者には。そんな風に思うんです。
どうぞ。